【不登校の小学生に、塾講師は何を教えるべきなのか。】

私が担当している小学生の生徒が不登校気味になっている。

いじめられているわけではないが、単純に人間関係が煩わしいというのが学校へ行きたくない理由らしい。学校へ行ってもつまらない。先生嫌いだしクラスメイトとも馬が合わない。完全個人主義で生きていきたいという少し変わった子である。
塾に通いつつ、チャレンジなどの自宅学習教材も取り入れたご家庭のため、学習環境は整っているようだ。実際その子の成績は悪くない。同級の子どもたちと比べて知識や思考力は頭一つ抜けている。

しかしそれだけでよいのだろうか。

机に向かって行うだけではない、学校教育の重要さを説かなくていいのだろうか。

 

20年前に小学生をやっていた純粋無垢の自分は、学校が好きだった。
イケイケなグループに属する子どもではなかったが、地味派手問わずクラス全員とそれなりにいい関係を築いていたように思う。好きな子がいて、仲良くできる友人がいて、絶妙な距離感を保った派手な奴がいて、可愛がってくれる図書室の先生がいて、充実した日々を過ごせていたと思う。もっとも、高学年になると受験勉強に明け暮れる日々を強要されたので、学校生活には安息を求めていただけなのかもしれないが。

小学校という集団組織から得られた経験は未だに役立っている。
自分の好きなように物事を進めれないし、じゃあ1人でやろうと思っても非力すぎて上手くいかないし、社会的な自分の価値は他人から決められてるんだと知ってしまったし、人間関係から派生する胸の痛みの味を覚えてしまったし・・・。

精神面も未熟で、非常に身勝手な人間たちに揉まれた社会で生きるというのは、なかなかハードなことかもしれない。足が速くないとマウントが取れない、勉強ができないとナメられる、たったこれだけのことで生活のしやすさが決められてしまう。こりゃ確かに生きづらい。
しかし皆、知らず知らずのうちにコミュニケーションジャングルを生き抜く術を身に着けていた。酸いも甘いも噛み分けていき、なんだかんだで少しずつ大人になっていった。振り返ってみれば大冒険だらけだった。


「だから君も大丈夫だよ!学校行ってみようぜ!」

「うん!」

とならないのが如何ともしがたい現状である。

「したくないことはしたくない、やりたいことをやる。興味がないことはしたくない。だから今日、宿題もやらなかった。」

最近、𠮟り方が分からない。ある種、自主性を持ちすぎていて勉強をやらせることがその子にとって正しいことなのかよく分からない。「宿題やらねえと次の宿題増やすから。」そう言ってもやってこないことがある。


「なんでやらなかった?いそがしかった?」
「べつにー。」

べつにーじゃねえよ。学校行かずに昼過ぎから塾へ自習来てるんだから、やる時間あるでしょうよ。せめて理由を述べろ、突拍子もない嘘でもついてみろ。火星人が家に攻めてきたとかなんでもいいから。

「本人の好きなようにやらせたい、でも学校は行かせたい、中学受験を視野に入れて。あっ、また宿題やってないみたい。もう!どうすればいいの先生。」

お母さん、どれを優先させればいいのです!!

先生だってすぐに解に辿り着けるわけじゃないんです!!

 

集団生活を送るうえでの勉強は、有効なコミュニケーションツールになったり、アイデンティティを示す武器になったりするけれど、その子の世界ではただの苦痛でしかないのかも。

我々の働く塾は個別指導ゆえ競争もないから、勉強量の基準にするものは学校の進度や受験校の難易度しかない。しかしながら、その子の学校の学習進度は分からない。お母さんが希望する中学校は高難度。
それを加味してカリキュラムを作成すると、週1回の授業しかない中で、こちらとしてはバリバリ問題をやらせるくらいしかないのである。もちろん面白味を感じてもらえるようにこちらも精一杯やってるつもりだが、「分かりあう」のは教材の設問よりはるかに頭を悩ませるプロブレムだ。(怒ってばかりでごめんね)

学校でわいわい勉強するのも楽しいもんだぞ。別に毎日行けとは言わん。だが、ちょっとくらいコミュニティと関わってみてもいいんじゃないか。どっぷり浸からなくていい、斜に構えてたっていい。すぐ逃げだしたりしなきゃそれでいい。逃げたくなったらきっと誰かが助けてくれる。もちろん自分から助けを求めたっていい。一緒に学校にいってはやれないが、俺も出来ることはしよう。

そんなこんなで本日も授業。
学校で学べることをどのように伝えていくかが、塾講師、いや、教育者としての課題である。